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1995年1月17日
 今日はあの阪神淡路大震災が起きた日です。もう20年近くたとうとしています。実は、あの当時、わたしは兵庫県尼崎市に住んでいて被災しました。すごい揺れで家の中はメチャメチャ。外に出てみると家の前のJR西日本の神戸線の踏切が鳴りっぱなし。電気は通じたのでテレビをつけると「2人、亡くなった」とのニュース。3日くらいしてから、すごい災害になったんだってわかりました。10日ほどたって、わたしの家の近くの中学校に米軍のテントができていました。
  わたしは、幸い借家は無事だったので住み続けることができました。一日家の中の片づけをしたあと、二日目から被災した仲間の安否確認・救援活動の取り組みを始めました。2011年に東北の大震災がありましたが、わたしにとっては阪神淡路大震災なんです。あの日々が昨日のように思い出されます。

あの当時の通信・情報インフラは…
 阪神淡路大震災が起きたのは1995年でした。技術面でどんな社会だったのか、聴覚障害者のことも関連させて書いてみます。
① Windows95が発売され、世界的に広がりましたが、これは1995年秋のことです。震災当時はWindowsはごく一部の人たちのものでした。まだ、パソコン通信というコトバが普通に使われていました。
② まだ、日本メーカーのワープロ専用機が元気な時代でした。特に、Canonのキヤノワード。なんと、わたしはこれを5台も使いつぶしました。記録媒体はFD(フロッピーディスク)。
③ 携帯はありましたが、メールは普及していなくて、聴こえる人の「もしもし…」の手段でした。今のSoftbankは当時はJ-Phoneと言いました。
④ ソーシャルネットワークなんてもちろんありませんでした。
⑤ 聴覚障害者が通信する手段はほぼ100%、Faxでした。
 …こういう時代でした。まさに隔世の感ありですね。

死ぬまで忘れられないこと
 わたしは仲間の安否を確認するために2週間、Faxしまくりました。一回に100通信を一日に10回近くやりました。夜中の2時でもFaxしまくり、1月分の電話代の請求額が2年分と同じ額になりました。Fax機は2台使いつぶしました。1週間は仕事を休んで仲間の安否確認。当時の校長からは、「他の被災した先生は頑張って出勤してきているのに、君は休んでいったい何をやっとるんだ!」と叱責されましたが、無視して仲間の全員無事を確認するまで家にこもったり、現地に出向いたりしました。その次に取り組んだのは救援・生活再建運動です。
 昨日食べたメシはなんだったかなあ…となっちゃうのに、20年近く前の事はほとんど覚えています。それほどの体験でした。やっぱり忘れられないです。

 今回アップしたPowerPointは、わたしがあの当時発信した一部分です。とても大事なものでスキャナに取り込んでPDFにしておきました。それをJpegにしてPowerPointに。

SNSでにんげんネットワークが逆に希薄になっている?
 最近はTwitterやLINEなどを利用して、災害時にもっと迅速に必要な情報を得ることができると言われています。通信や情報の入手そのものに関してはたしかにそう思います。Faxと比べることもないでしょう。
 でも、あの当時、多くの仲間が足で、自転車で、バイクで探しまわってくれました。全員の無事を確認したとき、わたしは「にんげんネットワークの力でみんなの無事を確認したぞ!」と発信しました。生活再建運動と並行して、聴覚障害者に対する生活サポート・情報提供の場作りもめざし、それが今のNPOデフサポートおおさかになっていますが、立ち上げの原動力も「にんげんネットワーク」でした。
 「にんげんネットワーク」、今の時代でもまだ生きているでしょうか。
 TwitterやfacebookやLINE、多くのいろいろな人とつながれるようになってきましたが、わたしは「これがはたして本当のつながりだろうか?」と思うことがあるのです。「にんげんネットワーク」は本当の出会いの中から生まれるもの。SNSと「にんげんネットワーク」、どうなのでしょう。
 どうも、SNSが進みすぎると、逆に人間関係が希薄になるような感がしてならないのです。わたしの考えすぎでしょうか。もしかしたらFaxを使って必死にやったあのときの方がマシだったのかもしれません。不便でも、強いつながりがありました。
 阪神淡路大震災から19年。ちょっと立ち止まって考えています。