9月27日
NPO法人デフサポート大阪が開設している、ろう・難聴の子ども達のためのネットを使った学びの場「ぼちぼちEdu」のデジタルワーク発表会に行ってきました。
テーマ、または発表内容は「世界の絶滅危惧種」「イスラム国とは」「好きなアニメ」「地球の環境保全」「日本の友好国と非友好国~より良い国際関係づくりを目指して~」。
参加する10数人の小中学生が、各自の関心に沿ったテーマについて調べたことを発表していきます。受講者を前に、パワーポイントを使って、自分の言葉(手話、声)で伝えます。
コミュニケーションを共有するために。PC要約筆記(大阪教育大学生)による情報保障もありました。
コミュニケーションを共有するために。PC要約筆記(大阪教育大学生)による情報保障もありました。
生徒自身の生き生き伝える力にも感動しましたが、それを引き出し、支えてこられた先生方、親御さん、ボランティア学生の熱いハートがあってこその発表だと感じられるものでした。
さらに、中心となって活動を続けてこられている稲葉先生(大阪府の聴覚支援学校教諭)はろう教育界の枠を飛び超えて活動されているとのこと。日本中、世界中の、ICT教育のパイオニアの先生達とのネットワークも広がっていく可能性があることもわかり、ますます、心ワクワク揺さぶられてしまいました。
現在、日本のろう学校(聴覚特別支援学校)では、手話も積極的に授業で使いつつ、補聴器・人工内耳装用の聴覚口話教育が行われています。以前ほどではないけれども、生徒の授業参加姿勢は受け身になる傾向があります。私が見聞きした各地のろう学校(聴覚特別支援学校)の中で、生徒の元気さ、自発性の面で、群を抜いて高い力を感じるのは明晴学園ですが、それにも劣らない、生き生き感、自発性が引き出された生徒達の姿をこの発表会で見つけることができたのでした!
ふりかえれば、今年30才になった次男が1才の時、髄膜炎後遺症による聴覚障害が明らかとなり、療育・教育の場に希望を求めて、いくつものろう学校を見てまわった時、失望感、脱力感を抱くしかなかった、あの時の状況と何という違いでしょう。
まわりの社会との隔たりを象徴するかのように、厚いブロックが高く積まれた塀に囲まれた敷地の奥に校舎は建っていました。乳幼児と親への指導から高等部授業までを見学させてもらいました。乳幼児の指導は、親に子どもとの関わり方のお手本を示すなど、母親支援を中心にしたもので、ろう学校以外の機関と共通したものでした。
幼稚部では、4人程度の少人数クラスで、先生がゆっくり丁寧に言葉かけし、子どもの表現を丁寧に引き出し言語化し、就園前指導と共通する、大切な関わりかたを親に示してくださる、ろう学校ならではの指導だと思いました。先生の指導力に差があるのは気になりましたが、ろう学校、というか幼稚部全体のシステムの中で補うので、担任の力の差によって、子どもと親が受ける指導・支援の質の差として広がっていかない工夫があったように思います。
幼稚部では、4人程度の少人数クラスで、先生がゆっくり丁寧に言葉かけし、子どもの表現を丁寧に引き出し言語化し、就園前指導と共通する、大切な関わりかたを親に示してくださる、ろう学校ならではの指導だと思いました。先生の指導力に差があるのは気になりましたが、ろう学校、というか幼稚部全体のシステムの中で補うので、担任の力の差によって、子どもと親が受ける指導・支援の質の差として広がっていかない工夫があったように思います。
しかし、がっかりしたのは、就学以降、つまり小学部以降の現実。1年生になっても教科書を使わず(読み書きの基礎力が不足しているため)、小学部3年になって初めて1年生の教科書を使った授業が始まるのです。
高等部の授業では、古文に出てくる言葉を説明するため手話を使っても簡単には通じない様子でした。「宮中」という言葉を理解させるのに「天皇の住む家」と説明しても、「天皇」の意味が、4人中2人の生徒に通じないのです。
手話を使っても日常使用しない言葉なので理解できなかったのか? 非日常的な言葉を表す手話がまだできていないのか? 単に、今日の先生が「天皇」を表す手話を知らなかっただけなのか? 言語力の基礎ができずに育ち、さらに二次的障害として簡単な言葉の理解さえできなくなった結果なのだろうか??
説明に授業の半分以上の時間を費やしても、その日のテーマ(紫式部の作品、源氏物語の一部を読む)の入り口にも入っていけない厳しい現実。その授業の結末は、先生が天皇のことを、手話で「4月29日のテレビのニュースでいつも手を振っている人」と表現したところ、生徒から、初めて明るい反応「ああ、その人、知ってる知ってる」といった表情とうなずきが返ってきて、「作者の紫式部が、その時代の天皇が住んでいた所で働いていた女の人である」ことがやっと伝わったことがわかり、終業することができました。その程度のことを伝えただけなのに、最後は、先生も生徒もクタクタになっていました。
手話を使っても日常使用しない言葉なので理解できなかったのか? 非日常的な言葉を表す手話がまだできていないのか? 単に、今日の先生が「天皇」を表す手話を知らなかっただけなのか? 言語力の基礎ができずに育ち、さらに二次的障害として簡単な言葉の理解さえできなくなった結果なのだろうか??
説明に授業の半分以上の時間を費やしても、その日のテーマ(紫式部の作品、源氏物語の一部を読む)の入り口にも入っていけない厳しい現実。その授業の結末は、先生が天皇のことを、手話で「4月29日のテレビのニュースでいつも手を振っている人」と表現したところ、生徒から、初めて明るい反応「ああ、その人、知ってる知ってる」といった表情とうなずきが返ってきて、「作者の紫式部が、その時代の天皇が住んでいた所で働いていた女の人である」ことがやっと伝わったことがわかり、終業することができました。その程度のことを伝えただけなのに、最後は、先生も生徒もクタクタになっていました。
見学時、一緒に回って解説して下さった先生の話では、この状況が特別なのではなく、いつも、どのクラスも、似たような状況で、それが毎日、繰り返されていると言われるのです。天皇の話も、毎年、天皇誕生日前後に話題にしているのに、翌年になったら忘れてるのだと…。家に帰って、日常語以外の言葉を使ってやりとりする事がない生徒の場合、環境的にしかたないと諦め顔で言われたのでした。
私は、このショッキングな見学を通して、息子は就学年齢を迎えたら、地域の通常の学校にインテグレートするしかない、それまでに、聴こえる子どもと一緒に学んでいける言語力をつけようと心に誓ったのでした。
母と子の共感関係をもとに家庭生活の中で子どもの言葉を育てる母親への指導、それを「母と子の教室」で、他の親子とグループになって学び、目標であった地域の小学校に入学することができました。単に背伸びしたインテグレーションではなく、クラスの友達もキュードサインを覚えてくれて、環境整備面では学校、先生方の配慮もあり、良い形で実現できたと自負しています。
母と子の共感関係をもとに家庭生活の中で子どもの言葉を育てる母親への指導、それを「母と子の教室」で、他の親子とグループになって学び、目標であった地域の小学校に入学することができました。単に背伸びしたインテグレーションではなく、クラスの友達もキュードサインを覚えてくれて、環境整備面では学校、先生方の配慮もあり、良い形で実現できたと自負しています。
それでも、小学校高学年から、コミュニケーション不全、情報保障の問題が出始めました。同年齢や同世代の友人の影響を受け人間形成していく時期の問題を、家庭で補うのは難しく、親以上に本人が悩み出したのでした。仲間集団の中で刺激し合い、自己を形成し社会力を養っていくという点で、中学、高校時代は大切な時期であり、学校の役割も大きいはずです。
それも見すえて、聴覚障害のある生徒を積極的に受け入れてきた私立学校に入ったのですが、聴こえる生徒がほとんどの中で、聴覚に障害のある思春期前後の子どもが、他の子どもと同じように刺激し合い社会性を養っていくのは、非常に難しいと痛感することになったのです。息子だけではなく、知人やその子ども達の似た体験談、上の世代の方の体験談を聞いて、聴力レベルや地域、時代の違いに関わらず共通の問題と知りました。
それも見すえて、聴覚障害のある生徒を積極的に受け入れてきた私立学校に入ったのですが、聴こえる生徒がほとんどの中で、聴覚に障害のある思春期前後の子どもが、他の子どもと同じように刺激し合い社会性を養っていくのは、非常に難しいと痛感することになったのです。息子だけではなく、知人やその子ども達の似た体験談、上の世代の方の体験談を聞いて、聴力レベルや地域、時代の違いに関わらず共通の問題と知りました。
今、ろう学校やろう者の集団存続の危機が話題になることがあります。
30年ほど前から、いやそれ以前かもしれませんが、ろう学校に対して、「聴覚障害のある子どもに、学年対応の教育実施し、年齢相応の学力を養成する場」としての期待を強く抱く親が多くなり始めました。残念ながら、ろう学校はそれに十分には応えることができず、私のように、子どもの自己実現や社会的自立のためには、ろう学校に入らない方が良いと判断する親は少なくありませんでしたから、それも、ろう学校の生徒減少の一因になっていることでしょう。
30年ほど前から、いやそれ以前かもしれませんが、ろう学校に対して、「聴覚障害のある子どもに、学年対応の教育実施し、年齢相応の学力を養成する場」としての期待を強く抱く親が多くなり始めました。残念ながら、ろう学校はそれに十分には応えることができず、私のように、子どもの自己実現や社会的自立のためには、ろう学校に入らない方が良いと判断する親は少なくありませんでしたから、それも、ろう学校の生徒減少の一因になっていることでしょう。
けれども、学校は、言語力、学力を育てるだけの場所ではありません。息子も含め、多くのろう難聴児者のインテグレーション、インクルージョン体験を見聞きしてきて、今、あらためてろう学校の果たす役割の大きさを感じているのです。言語力、学力以上に、仲間と刺激しあって、自己を形成し社会力を身につけていく場として、同じ障害を持った仲間が集うろう学校の存続は不可欠、と声をあげるべきではないか、と思うのです。
それには、ろう学校が、在籍生とその親を対象とするだけではなく、地域の学校に在籍するろう難聴児にも開かれた場、相談、支援をしてくれる場となってくれたら、と考えます。
ろう者といっても、補聴器・人工内耳を装用し音声語も使う人、聴覚を使わず手話だけでコミュニケーションする人、聴覚は使わないけど手話と声で話す人、いろんなタイプの人が集まってきて、誰もが疎外されず、できるだけ疎外感を味わうことのない空間。そういう場としての存続こそ必要ではないだろうか。いや、しかし、純粋なろう文化という点では、上の状況は難聴者の使う対応手話を認めるから、むしろ、ろう学校を存続してもろう文化を壊す存在となり、純粋な「ろう学校」の存続とは言えない、と意見されるだろうか??
ろう者といっても、補聴器・人工内耳を装用し音声語も使う人、聴覚を使わず手話だけでコミュニケーションする人、聴覚は使わないけど手話と声で話す人、いろんなタイプの人が集まってきて、誰もが疎外されず、できるだけ疎外感を味わうことのない空間。そういう場としての存続こそ必要ではないだろうか。いや、しかし、純粋なろう文化という点では、上の状況は難聴者の使う対応手話を認めるから、むしろ、ろう学校を存続してもろう文化を壊す存在となり、純粋な「ろう学校」の存続とは言えない、と意見されるだろうか??
こんな風に、ろう学校の役割について思うことは多々ありますが、現在、言語聴覚士養成校で聴覚障害児教育の授業を担当している事から、理論として理想として言える事と現実問題の狭間で考えることもあります。
そんなタイミングで、今回の発表会を見せてもらったわけです。私の頭の中では、現実、過去、未来の各次元の思考が、翼をつけて往来し混線しそうになるのですが、交通整理しながら、発表会の報告と感想、自分の体験談として報告してきました。
最後に、主催されたデフサポートおおさかの皆さま、関係者の皆さまへの感謝と、これからの日本のろう教育への期待を込めて下記にまとめの文を記します。
デジタルワーク発表会、ろう・難聴児の生き生き、堂々とした姿、参加者から複雑で次元の高い質問が出て、それに適切に応答する子ども達。見せてもらいながら、29年前、息子を連れて、ろう学校、難聴児の通園機関を見て回り、ろう教育の厳しい現実を目の当たりにした私の体験は、一昔、二昔どころか、(ある面では)大昔のことになってしまったようだと思いました。
もしかして、今もなお、残っている課題があるとしたら、過去のろう教育、聴覚障害教育の何を反省し、何を受け継いでいくものとすべきなのでしょうか。
デフサポートおおさかの試みは、新しい、ろう・難聴児教育のあり方について創造的に提案してくれているように思いました。
デフサポートおおさかの試みは、新しい、ろう・難聴児教育のあり方について創造的に提案してくれているように思いました。
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